もうすぐ50歳が見えてきました。

未だにアメカジが好きで、k‐popアイドルも好きです。我ながら、参ったオジサンだなぁと思います。笑

でも、まぁ、いっか。

若い頃より、子どもたち、嫁さんと過ごす時間も楽しくなりました。誰かに認めてもらうために頑張るより、好きな服を着て、好きなものを楽しんで、大切な人と笑っている。今の僕には、そういう時間のほうが価値があります。

もちろん、仕事も人付き合いも大切です。ただ、年齢を重ねるにつれて、ひとつ疑問が湧いてきました。

なぜ僕たちは、自分を否定するような人間関係まで、必死に維持しようとするのでしょうか?

嫌われたくない。仲間外れになりたくない。自分が間違っていると思われたくない。そんな気持ちから、本当は嫌なのに笑って、本当は違うと思っているのに同調してしまう。そして家に帰ってから、どっと疲れてしまいます。これを何年も繰り返す。人生は、そんなに長いのでしょうか。

自己否定のヘドロの沼

人間関係には、いろいろなものがあります。一緒にいると楽しい人。困ったときに助けてくれる人。自分とは違う考え方を教えてくれる人。そういう人たちとの関係は、大切にしたいものです。

一方で、自分を肯定するために、他人を否定する関係もあります。「あいつは駄目だ」「自分のほうが優れている」「自分は間違っていない」他人を下げることで、自分の立場を確認する。そんな会話に参加していると、いつの間にか自分も誰かを評価し、誰かに評価される世界から抜け出せなくなります。

そして、自分が否定される側になれば、今度は自分を守るために必死になります。自分の考えは正しい。相手がおかしい。自分は悪くない。こうして、終わりのない自己肯定と自己否定の繰り返しが始まります。

もちろん、他人の意見を聞いて自分を見直すことは必要です。間違いを指摘してもらうこともあるでしょう。でも、何をしても否定され、相手の評価を気にするあまり自分の考えまで失ってしまうなら、それは少し違います。

自分の価値を証明するためだけに、他人と付き合い続ける必要はありません。

僕は、そんな場所を「自己否定のヘドロの沼」と呼びたいと思います。

「自己肯定の人質商法」という構造

ここで、もう少し踏み込んで考えてみたいと思います。なぜ、自分を否定してくる相手から離れられなくなるのでしょうか。その理由のひとつに、相手からの評価を、自分の価値そのものだと思い込んでしまうことがあるのではないでしょうか。僕は、この構造を**「自己肯定の人質商法」**と呼びたいと思います。これは法律上の商法の名称ではありません。人間関係の中で起こり得る、承認と不安を利用した仕組みを表すための、この記事独自の呼び名です。仕組みは、こうです。

まず、相手の自己評価を下げます。「お前はまだまだだ」「そんなこともできないのか」「普通はもっと頑張るでしょう」直接的な言葉でなくても構いません。ほかの人と比較する。失敗だけを強調する。できて当たり前という態度を取る。それを繰り返されると、自分は駄目なのかもしれないと思い始めます。次に、承認を与えます。「今回はよくやった」「お前ならできる」「君だけは頼りになる」認めてもらえたことがうれしい。自分にも価値があると思えます。ところが、その承認がいつでも得られるわけではありません。また否定されるかもしれない。評価を下げられるかもしれない。居場所を失うかもしれない。そう考えると、今度は認めてもらうために行動するようになります。もっと頑張る。もっと気を遣う。断りたいことまで引き受ける。

本来なら対価や感謝があってもいい労力を、当然のように差し出してしまいます。こうして、相手の評価を失う恐怖が、自分の行動を縛っていきます。自己否定させ、承認を与え、転落を恐れさせ、貢献させる。これが、僕の考える「自己肯定の人質商法」です。

もちろん、誰かが褒めたり、厳しい指摘をしたりすること自体が問題なのではありません。相手が意図的に人を操ろうとしているとも、外から簡単には断定できません。

大切なのは、自己評価を揺さぶることが繰り返され、その結果、相手が断れなくなったり、過剰な負担を引き受けたりしていないかということです。

嫁姑問題にも、職場にも、商売にも

この構造は、特定の家庭だけの話ではありません。例えば、嫁姑問題です。何をしても認めてもらえない。何かをすれば、やり方が違うと言われる。それでも、家族の一員として認められたい。関係を悪くしたくない。その気持ちから、無理を重ねてしまうことがあります。もちろん、嫁姑問題のすべてがそうではありませんし、双方に事情がある場合もあります。

でも、相手の評価を得るために、一方だけが我慢し続ける関係になっていないかは、考えてみてもいいと思います。

職場でも似た構造は起こり得ます。仕事ができないと思われたくない。評価を下げられたくない。仲間から外されたくない。そのために、必要以上の仕事を引き受ける。断れない。サービス残業や無償の貢献まで当たり前になってしまう。

商売でも同じようなことがあります。不安を刺激して商品やサービスを買わせる。自分には足りないものがあると思わせる。相手の承認欲求を刺激して、高額なサービスや不要な契約へ誘導する。もちろん、必要な指導も正当な販売もあります。すべてを悪意ある搾取と決めつけることはできません。ただ、相手の不安を利用し、安心や承認と引き換えに過剰な負担を負わせる仕組みには注意したいと思います。

問題は、相手が厳しいかどうかだけではありません。相手の評価を失う恐怖によって、自分の判断や選択の自由まで奪われていないか。ここを確認したいのです。

20年以上連れ添った夫婦でも、別々の道を選ぶ

ここで、少し現実的なデータを見てみましょう。厚生労働省の2024年人口動態統計によると、同居期間が20年以上の夫婦の離婚は、年間40,686件でした。同居期間が判明している離婚のうち、約22%に当たります。つまり、離婚のおよそ5件に1件以上は、20年以上一緒に暮らした夫婦によるものだったということです。

もちろん、これは離婚した夫婦の件数であって、20年以上結婚している夫婦のうち何%が離婚するかを示す数字ではありません。また、離婚の理由がすべて人間関係のストレスや自己否定だったわけでもありません。

それでも、考えてみてほしいのです。20年という時間は、決して短くありません。一緒に生活し、仕事や子育てを乗り越え、さまざまな思い出を積み重ねてきたはずです。それでも、別々の道を選ぶ夫婦がこれだけいます。長い付き合いには、それだけの価値があります。

だからこそ、付き合いが長いという理由だけで、これから先も無理をし続ける必要はないと思うのです。

昔からの友人だから。長年一緒に働いてきたから。今さら関係を変えるのも面倒だから。そんな理由だけで、自分の気持ちを押し殺し続ける必要があるでしょうか。

過去に費やした時間は大切にすればいいのです。でも、過去に費やした時間を理由に、これからの時間まで差し出さなくていいのです。

人とつながっていても、孤独はなくならない

では、嫌な人間関係を全部切ればいいのでしょうか。それも違います。人間関係を減らすことで、ストレスが減ることはあります。一方で、必要なつながりまで失えば、困ったときに相談できる相手がいなくなるかもしれません。

内閣府の2024年「人々のつながりに関する基礎調査」では、孤独感について次の結果が出ています。

孤独感についての回答

しばしば・常にある 4.3%

時々ある 15.4%

たまにある 19.6%

ほとんどない 40.6%

決してない 18.4%

「しばしば・常にある」「時々ある」「たまにある」を合計すると39.3%。約4割になります。

ただし、これは孤独を感じる頻度についての調査です。人との接触が少ない状態を指す「社会的孤立」とは、同じものではありません。

友人が多くても孤独を感じる人はいます。ひとりで暮らしていても、充実した生活を送る人もいます。大勢の知り合いがいても、本音を話せる相手がいないことだってあります。

だから、孤独を恐れて誰とでも付き合うことが正解とは限りません。無理な人付き合いを減らすことと、社会から孤立することは違います。

自分にとって必要なつながりは残す。自分をすり減らす関係には、距離を置く。この区別が大切なのだと思います。

ダボ猫は何度もリセットしてきました。それでも人生は続いています

僕自身、こうした人間関係を何度もリセットしてきました。誰とでも仲良くしようとするのをやめる。無理に認めてもらおうとするのをやめる。必要以上に相手の期待を背負わない。

もちろん、仕事や家族など、簡単に離れられない関係もあります。生活を守るために慎重な判断が必要な場合だってあります。だから、何もかも捨てろと言いたいわけではありません。

ただ、僕が実感していることがあります。

無理に付き合うことをやめても、案外、何も起きません。

すべての人から認められなくても、人生は続いていきます。誰かに嫌われたとしても、それだけで自分の価値がなくなるわけではありません。自分の好きなものを楽しめます。大切な人と笑って過ごせます。会社の中での評価が、自分の人間としての価値のすべてではありません。相手に認められなければ生きていけない、ということはないのです。一個人の評価を全てに置き換えているとしたら、その犯人は自分です。

もちろん、距離を置いたことで嫌がらせを受けたり、生活に影響が出たりするケースもあります。そういう場合は、安全や生活を優先して、信頼できる人や適切な相談先を頼ればいいと思います。

それでも、相手の評価だけが世界のすべてではありません。僕はそう考えるようになりました。

60歳になっても、誰かに認められるために生きるのでしょうか?

45歳を過ぎたら、60歳の自分が少しずつ見えてきてもいいと思います。会社での役割が変わる。定年を迎える。毎日顔を合わせていた人と会う機会が減る。今まで当たり前だった人間関係が変わっていく。

そんなとき、自分には何が残っているでしょうか。会社の肩書きでしょうか。人からの評価でしょうか。それとも、自分が楽しめる趣味や、大切な家族、気兼ねなく話せる相手でしょうか。どれが正解というわけではありません。ただ、会社の中の自分だけが人生のすべてになってしまうと、その役割を失ったときに戸惑うかもしれません。

だからこそ、現役のうちから、会社以外にも自分の居場所をつくっておきたいのです。

家族との時間でもいい。趣味でもいい。ひとりで楽しめることでもいい。誰かに認めてもらわなくても、楽しめるものを持っておく。そして、自分が大切にしたい人との時間を大切にする。

僕の場合、嫁さんと過ごす時間がそのひとつです。若い頃より、一緒にいる時間が楽しくなりました。そんな変化を感じられるのも、年齢を重ねたからこそなのかもしれません。

まとめ:あなたは選べ。そして、沈むな。

多くの人が、自己否定のヘドロの沼に沈んでいます。

嫌われたくない。認められたい。自分が間違っていないと証明したい。そうした気持ちは、誰にでもあります。でも、そのために自分の時間や気持ちを削り続ける必要はありません。

20年以上一緒に暮らした夫婦でも、別々の道を選ぶことがあります。

人とのつながりがあっても、孤独を感じる人は少なくありません。

このデータから、人間関係を減らすことが正解だとは言えません。ただ、人付き合いを続けること自体が目的になってしまったら、一度立ち止まってもいいと思います。

そして、自分の自己評価が、いつの間にか他人の手に握られていないかを考えてみてください。

認めてもらうために、必要以上に頑張っていませんか。評価を失うことが怖くて、断れなくなっていませんか。自分の時間や労力を差し出すことが、いつの間にか当たり前になっていませんか。

もし心当たりがあるなら、少しずつ距離を調整してみてもいいのです。誰とでも付き合う必要はありません。誰とも付き合わない必要もありません。自分を大切にしてくれる人。自分が大切にしたい人。安心して本音を話せる人。そういう関係を選び、育てていけばいいのです。

そして、必要のない比較や、誰かを否定することでしか成立しない関係からは、少しずつ離れていけばいいと思います。

自己肯定を人質に取られたまま、自分の人生まで差し出さなくていいのです。

人生には限りがあります。60歳になっても、70歳になっても、誰かに認められるためだけに生きるのでしょうか。それとも、自分が好きなものを楽しみ、大切な人と笑って過ごすのでしょうか。

あなたは選べ。そして、沈まないでください。

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